特集ワイド 被災地警備業の今
更新日:8月20日
原発事故からの帰還
2011年3月11日の「東日本大震災」から15年、2016年4月14・16日の「熊本地震」から10年――。両震災による死者・行方不明者は計2万人を超え、警備業にも大きな被害が発生した。岩手では津波、福島では原発事故、熊本では未曽有の揺れにより塗炭の苦しみを味わった警備会社・協会の軌跡を追った。
東日本大震災による巨大津波は、東北沿岸部を中心に大きな被害をもたらした。そのすさまじい破壊力は原子力発電所をも機能不全にした。
コスモさくら警備保障(鹿島栄子代表取締役)が本社を置く福島県富岡町は、東京電力福島第一原子力発電所の事故後間もなく、人の立ち入ることのできない「帰還困難区域」となった。鹿島社長の苦難の始まりだ。
震災翌日には原発から離れた郡山市内に避難したが、「避難生活のためにお金が必要」との警備員から窮状を訴える連絡が携帯電話に相次いだ。そのため意を決して会社に戻り、金庫に保管していた、封筒に入れて手渡すだけになっていた警備員約80人分の給料袋を回収。避難所近くの銀行に頼み込んで一室を借り、安否確認を行いつつ振り込み作業を行った。
その後、県内を転々としながらも、取引先からの要請を受けて交通誘導警備業務を再開。食糧確保もままならなかったが、福島県警備業協会から差し入れられた米を事務所で炊き、警備員各自が“塩にぎり”を作って現場に通う日々が続いた。
同年6月には原発から20キロメートルほどの広野町内にプレハブの小さな事務所を借り受け、本格的に業務再開。事務所奥の畳敷きの小部屋が鹿島夫妻の住まいとなった。
警備員も徐々に増え、一時は5人まで減った警備員が、震災前と同じ約80人となった。
2020年にはプレハブから洒落た2階建ての事務所に建て替えた。しかし、鹿島社長の生まれ育った故郷でもあり、会社創業の地でもある富岡町への思いを捨てきれず、新社屋は「仮本社」とした。
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23年春、富岡町の「帰還困難区域」が解除された。鹿島社長は、かつて本社があった場所に2階建ての新社屋を建設、5月に移転を完了した。“あの日”から12年ぶりの“帰還”だ。
4度目の同社訪問となった26年3月。警備員は震災前より増え130人。家族や単身者の寮として借り上げた7棟のアパート、50台の社有車を、県外や遠方から通う警備員のために用意している。社有車は現場への交通の便が悪いこともあるが、以前はタイベックスーツ(防護服)を着用して現場に出ることもあり、自家用車の放射能汚染を嫌がった警備員が多かったため。創業時からの夢だった「特別講習講師の輩出」も実現できた。
今も続く「除染作業」現場での交通誘導警備をはじめ、道路やトンネルなどインフラ関連事業など今も業務は多忙だ。「地元の警備会社として仕事は断らない」をモットーとしているが、人材不足は同社も同じ。最大の悩みの種だ。
一昨年には警備員の制服をリニューアル。遠目でも目立つ蛍光色を使用したことで、イメージアップや視認性向上による事故防止にもつながっている。
「仕事、仕事でやってきた“あっ”という間の15年でした。会社と社員、社員の家族を守る。路頭に迷わさない――だけに心して取り組んできました」と、震災後15年を振り返る鹿島社長。その姿を見てきた長男は、社内では専務取締役として営業や現場を担当するとともに、社外では福島警協青年部会の部会長を務めるなど、年々頼もしくなった。長女は常務取締役として経理全般など会社の縁の下の力持ちとして会社を支えてくれる。2年後に迎える創業30年は、「仕事一筋」でやってきた鹿島社長の集大成でもある。
「陸前高田の警備会社」
「ここに営業所を出すことを検討しています」――。5年前の取材の帰り際、警備会社「N・SAS」(本社:岩手県北上市)の及川明彦代表取締役社長(岩手県警備業協会会長)が明かした通り、岩手県陸前高田市には新たな事務所「N・SAS三陸支店・三陸営業所」が完成していた。赤色で描かれた社名の文字がひときわ目を引く。
地域貢献のために地元建設会社に工事を依頼。費用は同社と合併した警備会社と取引のあった地元信用金庫から融資してもらった。
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2017年9月、及川社長は先代から慣れ親しんだ社名「南光警備保障」を「N・SAS」に変えた。「N」は旧社名から、「S」は15年に合併した、陸前高田市を拠点としていた三陸警備保障の頭文字からとった。
両社は営業エリアが異なっていたことから、先代から仲のいい同業者だった。しかし、東日本大震災が運命を大きく変えた。
陸前高田市を襲った約18メートルの大津波は、三陸警備保障にも大きな被害をもたらした。従業員は全員無事だったものの、社長夫妻、社長の長女夫妻(夫は専務)が津波に飲み込まれた。社長夫妻は現在も行方不明だ。
難を逃れた次女の夫が及川社長に助けを求めてきた。社屋をはじめ書類全てが津波で流された同社。会社の「代表印」つくりから始めた及川社長の支援により業務再開にこぎつけた。
ある日、三陸警備保障から「会社を引き取ってほしい」との打診があった。及川社長は「そんなつもりで手伝ってきたんじゃない」と固辞。同社は県外大手への譲渡も打診したが、返事は「客は引き受けるが従業員はいらない」だった。
震災直後から会社のために頑張ってきてくれた従業員を裏切ることはできないと悩む同社を見ていた及川社長。「合併しよう」と腹をくくった。
N・SAS三陸支店・三陸営業所の現在の警備員は15人。
「震災による人口流出より地方の人口自然減の影響が深刻です」と、及川社長はデータを示し構造的な課題を指摘する。
一方で、人口減を見据えた新たな取り組みも始める。
「人で稼ぐ」警備業務に加え、「物でも稼ぐ」ために、キャンピングカーの「レンタル事業」を4月から開始する。知人が同事業をすでに行って成功していたことや、昨年の陸前高田市隣接の大船渡市内での大規模森林火災を受け、「キャンピングカーは災害時に被災地支援にも活用できる」が理由だ。
合併後の会社の歩みについて「今では地元の警備会社として認識してもらっています」と語る及川社長。「陸前高田の三陸警備保障」は「陸前高田のN・SAS」に完全に生まれ変わったようだ。
三陸営業所の所長と沿岸地区警備隊の隊長を務める佐藤嘉克氏は元・三陸警備保障の従業員。
「歳月とともに昔の街並みが記憶から薄れていきます。今は(三陸警備保障を引き継いでくれた)“恩返し”の気持ちで働いています」と、震災15年を振り返った。
熊本県警備業協会 西利英会長
地震には八代市内の自宅で襲われました。経験したことのない大きな揺れに驚きました。私は両親と共に自宅に残り、妻と子は地震後すぐに開設された避難所に向かいました。しかし、避難所はどこもいっぱいで、すぐに自宅に戻ってきました。
被害状況はテレビで知りました。特に県のシンボルでもあった「熊本城」が大きく損壊したことは、多くの県民にとって大きなショックでした。
地震後は取引先の建設会社が被災地の復旧工事を実施。当社警備員も出動しました。
八代市内は地震による被害はなく、通常業務が続けられていましたが、被災地からの緊急の出動要請と通常業務との調整が大変でした。
熊本県警備業協会が入居していたビルが大きな被害を受け、倒壊の恐れがあるとして「即時退去」を命じられましたが、全国警備業協会や都道府県協会、各警備会社から義援金や支援、励ましをいただき、6月には事務所移転が実現できました。協会加盟社の被災警備員全員にも見舞金を贈ることができました。
熊本警協は経験豊富な警察官OB10人を臨時に採用、5月11日から40日間、午後4時から午後10時まで避難所警戒を実施しました。加盟各社もがれき仮置き場や通行止め道路での交通誘導警備を実施、多くの市民から高い評価を得ました。一方で、通行止め道路での交通誘導警備は、24時間体制で行われるため、交代要員を含め多くの警備員が必要となり、通常業務を行いながらの対応で各社の負担が大きくなりました。これを教訓に熊本警協は現在、協会事務局が窓口となり災害時対応について加盟社間で定期的な意見交換を行い、災害への備えに万全を期しています。
私は震災当時、協会の理事を務め、会長に就任したのは震災4年後の2020年です。
協会は県警と災害支援時の協定を締結していましたが、当時発動することとはありませんでした。現在、協定を現行の県警から県との包括的な協定とするために協議を重ねています。
地震を機に、弊社は警備員の安否確認など、緊急時の連絡体制の整備に取り組みました。協会加盟社の多くも同様の取り組みを行ったと聞いています。
県内では地震後に豪雨災害も経験しました。
豪雨災害では岡山県内で警備員が被災するなど不幸な事案もありました。警備員の被災を防ぐ方法の確立は当協会においても急務です。復旧、復興をはじめとする災害への対応は県や警備業者だけではできません。県、市、業界、県民など皆で取り組んでいくテーマです。


